アーキ不動産のある岡山市中区
全国で18番目の政令指定都市となった岡山市は、災害も少なく温暖な気候から「晴れの国岡山」と呼ばれています。桃やマスカットなどの果物の生産が盛んなことから「フルーツ王国」としても有名です。
中区は平成21年4月岡山市の政令移行により誕生した岡山市を構成する4行政区のうちの1つですが、行政の中心となる岡山県庁舎・岡山市役所や岡山駅は北区にあります。面積:51.24K㎡、人口約146,000人と4行政区の中で最も面積が狭く、人口密度が最も高いといった特徴を持っています。
岡山県民のシンボル「岡山城」
天下人となった豊臣秀吉の家臣で豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が築城した城です。めずらしい不等辺五角形をした三層六階建ての天守閣は威厳のある佇まいで、黒い下見板張りの外観から、別名「烏城(うじょう)」と呼ばれています。
そののちの城主になった岡山藩主、池田光政は、徳川光圀(水戸黄門で有名♪)、保科正之に並ぶ、江戸時代初期の「三名君」として、全国的にも知られています。光政が出した「倹約令」には、「食膳は一汁一菜とする」とあり、この制度の中で少しでも美味しいものを食べたいという庶民の願いから、海の幸と山の幸を散らした「岡山名物・ばら寿司」が誕生したともいわれています。
現在、令和3年7月30日以降、「令和の大改修」工事を行われています。リニューアルオープンは令和4年11月が予定されています。
新しくなった岡山城、今からとても楽しみです♪
岡山干拓史と地名
岡山での干拓の歴史は古く、岡山の歴史は干拓史の上に形成されたとも言えます。現在の岡山平野の耕地は約25,000ヘクタールですが、そのうち約20,000ヘクタールは干拓によって生み出されたと言われています。中世以降発展していった「たたら製鉄」により、大量の土砂が中国山地から下流に供給され、その後戦国時代末期~江戸時代~明治にかけては治水対策と新田開発などの目的として、現在の広大なゼロメートル地帯が広がる岡山平野が形成されました。
岡山県の南部一帯は、かつては「吉備の穴海」と呼ばれ、大小の島々が点在する一面の海でした。
干拓地のひとつである沖新田には、数字を含む地名が多く見られます。 ○番用水、○番川、そして三蟠に九蟠など沖新田に見られる数字を含む地名は、当時に仕分けられていたそれぞれの工事現場の番号に由来しています。
五番、六番、七番、外七番の地域、現在の光津、政津、君津、升田といった地名は、藩主である池田光政の光政、干拓の責任者である津田永忠の津田という名前に由来する地名です。
これらの地名は全て沖新田の干拓事業に由来し、様々な形で干拓事業の名残が地名として残されています。
その後の日本干拓史に残る“世紀の大事業”児島湾干拓は、大阪財界の重鎮・藤田伝三郎により私財を投じで行われ、その名前は現在の「岡山市南区藤田」という地名で残されています。
他にも干拓関連の地名は多く
・干拓地(土地・浦)が安らかでありますように⇒「浦安」の地名の由来
・早島や児島・玉島など現在の「島」がつく地名がかつて本当に島だったことが由来です。
ここで豆知識!
児島湖の面積は、ダム湖を除く人造湖の中で世界第 2 位(約11km2)になります。
世界第 1 位の人造湖はオランダにある1932年に完成した「アイセル湖」で、面積はおよそ1200km2
と児島湖の100倍以上になります。
そして、児島湖はそのアイセル湖をモデルにして造られたそうです。
日本の三名園のひとつ「後楽園」
岡山市にある日本三名園のひとつである後楽園は、江戸時代の初めに造営された池泉回遊式の庭園。岡山藩主・池田綱政の命で津田永忠により1700年に完成。広さはなんと東京ドームの約3倍!当時は、岡山城の後ろにあることから「後園」または「御後園」と呼ばれていたようです。
今では信じられませんが、第二次世界大戦中は食糧難で芋が栽培されていたそうです。また1945年の岡山空襲で、江戸時代から残っていた建造物が焼失。しかし戦後、公園として一般公開され、1967年にはすべての建造物が復元されました。
日本三名園といえば ●偕楽園(茨城県) ●後楽園(岡山県) ●兼六園(石川県)です。 三名園それぞれを掛け合わせた表現として「雪月花の雪に兼六園」「月に後楽園」「花に偕楽園」と唄われています。
後楽園では主が居間として利用していた「延養亭(えんようてい)」や、美しい池の眺めを楽しむことができる「廉池軒(れんちけん)」など歴史的に価値がある風景を堪能でき、それぞれの季節によって異なる自然の風景を楽しむこともできます。ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンにおいて、三つ星の評価を取得しているスポットなんです♪
「岡山後楽園」と「岡山城」が、旭川(月見橋)を挟んで一斉にライトアップされる特別イベントの「幻想庭園」ですが、今年は春・秋ともにコロナ渦の影響で中止されました。
水面に移る景色がとてもきれいですね♪
通りと筋
岡山市街地には沢山の道の愛称がありますが、実は規則性があります。 一般的に『通り』がつけられた道は東西に伸びている道で、道の方向が南北に伸びている場合は、『筋』(すじ)という表現が用いられています。 岡山でよく知られた通り・筋をご紹介します。
柳川筋
柳川と呼ばれる川が通っていた事が由来です。現在では川は蓋をされて暗渠となり、上は道路になっています。柳川は元は岡山城の外堀で、小早川秀秋が二十日で作り上げた事から二十日堀と呼ばれる堀がありました。明治時代に入ると堀の両側は埋め立てられ川になりました。1895年に日清戦争の勝利を祝して柳の木を植えた事から柳川と呼ばれるようになりました。
オランダ通り
オランダ通りの名前は、この辺りに楠本イネが住んでいた事に由来しています。楠本イネはオランダ軍の軍医として来日していた医師のシーボルトと、日本人の母親の間に生まれた子供です。シーボルトは実際にはドイツ人ですが、当時の日本はオランダ人以外は入国出来ませんでした。そこでオランダ人と偽って入国しており、ドイツ人と日本人のハーフである楠本イネがオランダおいねと呼ばれているのはその為です。 楠本イネは日本人の女性として初めて西洋の産科を学んだ人物です。岡山に滞在したのも父の弟子の医師・石井宗謙から産科を学ぶ為でした。二人の間に子供を身籠るまでの約7年間滞在していました。この時に生まれた子供が、楠本高子です。とても美しい方だったので、漫画家の松本零士さんが銀河鉄道999の主要登場人物であるメーテルのモデルにしたとも言われています。
あくら通り
『あくらの木』がある事が由来です。実は『あくら』というのは、岡山市の市の木にも指定されている『クロガネモチ』の、ローカルな呼称です。そのほかにも南北の市役所筋、東西の後楽園通り、桃太郎通り、県庁通りなどが有名ですね。
この記事を書いた人
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